もちもちパンダ/

介護家族の悲鳴 その3

うつ病の夫の世話

 ようやく家について、荷物を下ろし、息子も家に入って一段落、と言いたいところだがそうはいかない。夕飯を用意しなければいけない。息子もお腹が空くころだ。

 私達が帰ってきた音が聞こえたからか、夫が2階からゆっくりと降りてくる。私たちは、夫と息子の3人で暮らしている。私が「ただいま」と言うと、夫がぼやけた笑顔で「お疲れ様」と言う。夫は抗うつ薬抗不安薬のせいでいつもぼーっとしている。

 明るいうちに帰って果たさねばならない私の大事な仕事。うつ病で休職している夫の夕飯を作ることだ。しかし私は、睡眠不足と早朝からの農作業、長時間の運転、親の世話と家の整理などの身体的な疲労に加え、父の尿失禁による精神的ショックも受けていた。体はとうに音を上げていて、少しでいいから休みたかった。それでも料理だけは、と奮い立たせて台所に向かた。

 その間、息子には幼児向け通信教育ベネッセの教材キャラクター「しまじろう」のDVDを見ていてもらう。息子はしまじろうが大好きなので、夢中でDVDを見てくれる。その間だけは「ママ、遊ぼう」と言われることなく、家事ができるのだ。ベネッセの教材DVDは、私のようなワンオペ母親にとっては「教材」ではなく、「ワンオペ育児支援ツール」だ。

 どういうことかというと、この時期の子どもはとにかくいつもいつも「ママ、ママ」と連呼し、一緒に遊べという要求が強く、家事をさせてくれない。トイレにさえ行かせてくれなかったりするのが当たり前だ(あんたのご飯を作りに行くんだよ! と言いたくなる)。それが、夢中になってDVDを見てくれる。ずっと私にべったりで離れてくれなかった息子が、私の手を離れてくれる。「OHHH!!YEAHHHH!!!ワンダホー!!」と叫んで飛び跳ねたくなるのを抑えながら、静かにトイレに行き、食事の用意や洗濯、掃除などの諸々の家事をするのが毎晩だ(ちなみにベネッセを利用しているママ友の間では、ベネッセは「教材」ではなく「育児支援ツール(子どもの興味をママからそらす)」という意見は皆合致している。ベネッセがそこを意識してマーケティングしているか否かは知らないが、共働きが多くワンオペ育児の多い現代社会に実にフィットした商品だ。ベネッセ、グッジョブ!)。

 そんな息子やテレビの画面を、夫はソファに座ったままぼーっと眺めている。夫の口の端は、筋弛緩作用のある抗不安薬のせいで、いつもだらりと開いている。

 夫は去る5月末のある日、突然「俺はもう会社に行けない」と言って会社に行かなくなった。正確には、体が動かず、行けなくなってしまったのだ。なんとか引っ張って心療内科に連れていくと、うつ病と診断を受け、休職するようにと指示された。そして今もずっと休んで家にいる。

 夫が上司からのパワハラ苦しんでいるのは知っていた。そのせいで、一日に6リットルものビールを飲んでいるのも知っていた。日曜日は朝からビールを飲み、午前のうちに酔っ払って寝てしまっていた。早朝に出かけ、終電で帰ってくる夫。彼の部屋の中はビールの空き缶だらけで、リビング内に彼の体から発せられるお酒の臭いが充満していたこともあったほどだ。たまに顔を合わせる週末も、いつもつらそうで、酔っ払った顔は真っ赤だった。パワハラの話を聞いた時には「何か社長に訴えるとかできないの?」と聞いたが、真面目で優しい彼は「大丈夫」と言うだけだった。私にはなす術がなかった。

 そんな折に、彼の体の方が悲鳴を上げた。結果的には、休職することになってよかったと私は思っている。あのままだったら、彼は間違いなく完全なアルコール依存症になってお酒から抜け出られなくなるか、自殺していたと思うから。

 休職し始めた当初、彼は全く動けなくなっていた。抜け殻のようだった。排泄すら、私の方から促したほどだ。最初の2週間ほどは、完全に身の回りの世話をしてあげなければいけなかった。風呂も入れなかったから、体を拭いてあげたり、食事も食べさせた。トイレにも連れいていった。

 その2週間は、私にとって地獄のようだった。手のかかるイヤイヤ期の2歳児(まだ誕生日が来ていなかった)の世話と、ほぼ寝たきりの夫。そして日中に私は仕事をしなければならない。当時の私は、以前勤めていた会社が経営不振となって会社都合解雇されたところだった。昼間は、知人のご縁で紹介してもらった仕事をしたり、出版予定の書籍原稿を書いたりしていた。在宅にいることが多かったため、なんとか夫と息子の世話を両立していくことができた。

 しかし、夫がこれからどうなってしまうのかという不安は尽きなかった。何より、経済的な不安は大きかった。私自身が解雇されたばかりで収入が少なくなっていたため、夫の休職による収入減は不安に拍車をかけた。そして今まで元気だった夫が抜け殻のようになり、排せつすらままならない状態になってしまったこともつらかった。両親もそうだが、今まで元気だった大切な身内が弱っていくのは本当につらい。見ている家族側が精神的、体力的にやられてしまうということは痛いほどによく分かった。

 私は夫の体を拭きながら、有料老人ホームで清拭していた当時を思い出し、「高齢者の体とは、肌の張りも筋肉も全然違うな」などと妙に冷静に思っていた。まるで私の体から意識だけが幽体離脱でもしてしまったかのような感覚だったが、そうでもしなければ、私の心身がその状況に耐えられなかったのだろう。夫の状況と正面から向き合ったら、私の精神は崩壊していたかもしれない。(ぱんだ)