もちもちパンダ/

「入院すると介護度が悪化」は市民に通じるか?

「入院不要な46%の患者をどう減らせるか?-佐々木淳・医療法人社団悠翔会理事長」(→こちら)という記事を書いたが、これは重要である一方、実はとんでもなく難しい話だと思っている。 

佐々木氏の主張はよく理解できるし、在宅療養中の家族のいる知人友人の話を聞くと、実際に状態は悪化している。要介護高齢者にとって入院が良くない(もちろん必要な治療はなされるが)ということは、少しでも医療や介護に興味のある人にとっては「なるほど」だろう。 

ただ、一般市民に話を聞くと「いざとなれば入院がある」「入院すればなんとかなる」と、入院を“護符”か何かのように思っているフシがある。高齢になればなるほどそういう意見を聞く。まるで、救急車という“かぼちゃの馬車”で病院という“何でも治せる設備の整ったお城”に運ばれ、そこで医療者が魔法の杖を一振りすれば、たちどころに治ってしまうかのような幻想を抱いている高齢者は意外に多い。しかし、医療者も人間だ。「救命」という大命題は通底していても、人によって専門も経験年数も考え方も違う。突然運ばれてきた、複数の病気や合併症を抱えた高齢の患者を、完全に治療してしまうことなどそもそも無理だ(もちろんその際に必要な医療は行われるが)。ここに、医療者側と一般市民側の感覚の大きなギャップがあると筆者は思っている。 

 佐々木氏はシンポジウム冒頭でちらっと「在宅患者に年金目当ての息子がいたり、精神疾患のある患者の子どもが学校に行っていなかったり」と話し、もはや在宅医療介護の領域を超えた問題があちこちで起きていることを示唆したが、こういった話もそのギャップと大いに関係があると筆者は思っている。 

この医療者側と市民側のギャップを生んだ大きな要因は二つあると思っている。 

医療者が「俺たちに任せとけ!」と言い過ぎたこと 

戦後、日本の医療は飛躍的に進歩した。そして医療行為が医療機関というハコモノの中、「生活」から切り離された場所で行われる特別なものになった。特に大規模な病院になるほど、中で何が行われているか患者にはうかがい知ることができなくなった。これに医療の高度化と技術進歩、専門分化が加わり、患者側と医療者側の情報の格差を生んだ。一般市民から見えづらい部分には利権が生まれやすくなる。高齢者医療費無料という、入院が「利権」になった時代もある。利権と情報格差が絡んだことで、医者は患者家族に対し「俺たちに任せとけばいい」という態度をとりやすくなった。結果、医師は常に患者より立場が上であるという雰囲気が蔓延した。医学生は「患者を救うことが何よりも尊い」と“洗脳”され、そのパターナリズムに疑問を持たないように育てられてきた。(今は部分的に溶けつつあると感じている)。その結果、「先生ならどうしますか?」「先生にお任せします」という他力本願な、酷い場合は過度な医療依存により医療を“魔法”と思い込んだ患者家族ができ上がった。もしくは、不透明な医療に対して不信を持ち、インターネット上の医療情報を印刷して診察室に持ち込み、主治医に対して「その医療は間違っている」というモンペになるかだ。

 荒い書き方をしたが、これは「医療モデル」の時代の負の遺産だ。

国が医療の値段・方針を決めていること 

医療の値段と方針を決めているのが国であるため、一般市民にとって医療界で起こる問題は他人事になっている(不幸にも医療関連事故に巻き込まれることなどがあれば自分ごとになるが)。国の医療政策は医療機関に対する診療報酬と助成金制度というアメとムチで誘導されるため、国民には直接知らされない。知らされたとしても、「ジェネリックを使いましょう」というチラシぐらいか。「地域包括ケア」や「地域共生社会」という言葉など、一般市民はほぼ知らない。つまり、一般市民はニンジンを目の前にぶら下げられた、どこに行くか分からない馬に乗っているようなものだ。国がニンジンを川に向ければ一般市民は川に行くしかないし、山に向ければ山に行くしかない。しかし国は、馬に乗った一般市民に向けて「ニンジンを川に向けます」とは決して言わない。あくまで、馬を誘導するだけだ。その方が簡単だから。しかも①で書いたように、その馬は現在まで、元気に「俺に乗ってたら安心だから着いて来い!」と言っていた。いまさら「馬の行き先(地域包括ケア、地域共生社会)を自分たちで考えろ」「馬が疲労困憊だから(医療のヒトモノカネ不足)理解しろ」なんて言われても、「知るかよ。今まで勝手にそっちでやってたことだろ」という感覚になるのは当たり前ではないか。一般市民は、自分で決められない医療制度になんか興味を持たない。そんな国民にしたのは、国と医者だ(国民性の問題もあると思っているが)。 

こういう医療者と一般市民の感覚のギャップがある上で、「入院を減らす」ことを実践していくのは非常にハードルが高いと筆者は考えている。佐々木氏が言うように、「在宅医一人がどんなに頑張ってもこの入院は減らせない」、「医療面以外の部分をどう充実させていくか、というのが大きな課題」というのは真実だと思う。そうすると、一般市民側の理解と協力が不可欠だ。まず、入院によってなぜ「入院関連機能障害」が起きるかということ、また制度面の不備を理解しなければいけないが、医療を“魔法”と思い込まされている一般市民には理解不能だろうし、理解したくもないだろう。「お上にお任せ」と思考停止している方が楽だからだ。そして国は、今後もニンジンを引っ張ることしかしない(引っ張っていたい、引っ張り続けたい)だろう。厚労省の藤岡雅美氏の話(→こちら)も納得はするものの、具体的な話もないまま結局自治体と一般市民に丸投げにしている役人の無責任さを感じざるを得ない。 

 一方で、介護力不足は、長時間労働や共働きが当たり前となり、核家族が増えた現代社会では起こって当然のことであり、今後ますます深刻になるはずだ。高齢出産の増加と共に、介護と育児を抱えながら働く「ダブルケア」家族が増えた。介護力不足というが、そのために、介護離職する人は年間10万人もおり、日本の労働力不足に拍車をかけ、国の経済力を損なっている。ある精神科医はうつになる最も大きい理由の一つが「経済問題」と話したが、離職すれば明らかに収入は減る。国内にうつなどの患者は112万人おり、年々増加している。

 こういう状態で、一般市民のほとんどが知らない言葉、「地域共生社会」をどうつくるのか、どうしていったらいいのか。分かっている人など、恐らく日本中にいないのではないか。それぞれの立場の人たちが、模索していくしかないことだろう。一人の記者である筆者としては、現場で起こっている問題や好事例を追い、伝えるしかないと思っている。(ぱんだ)